キャラクターの存在と尊厳

http://anond.hatelabo.jp/20091105140528

 われわれは、今のわれわれがどれだけのキャラクターを忘れてしまっているかを確かめることができない。「今日休んでる人、手を挙げて」という古典的なギャグと同じだ。存在が認識できないものの数は数えられない。
 自分がこれまで摂取してきたフィクション、そのなかでほんの少しでも好意を覚えたことのあるキャラクターのうち、最期の瞬間まで忘れずにいられるのは一体どれだけだろうか? 一体どれだけの数のキャラクターを、われわれは忘却界に打ち捨てながら生き延びてゆくのだろうか?
 愛着と忘却とは同じ一枚のコインの両面であり、そのコインはキャラクターを愛する人間に科せられた原罪のようなものだ。手からこぼれ落ちる一方の砂をいつまでも掴んでいようとする無駄な努力。そして既にこぼれ落ちてしまった砂は、そこにあることすらわからない。えいえんとは、幻想入りとはそういうことだ。

 ほんとうは、キャラクターを構成するブラックボックスが実在している必要などないのだ。それではバルトが批判したような、古臭い実在論的な作家概念となんら変わらない。
「伺か」のように、いかにもブラックボックスそのものですよというそぶりのアイコンがWindowsのGUIシェル上に見えていようが、それがキャラクターの実体というわけではない。逆に、もしほんとうに十分な冗長性をもつブラックボックスが実現できたとしたとしても、それがキャラクターとしての輝かしさに寄与する保証などはどこにもない。
 なぜか? キャラクターとはそのようにして存在するものではないからだ。シミュラークルにすぎない表象が不気味な幽霊(ゴースト)となって主体に襲い掛かる瞬間、その瞬間がキャラクターそのものであり、それこそがマテリアライズの意味だ。人工無能はあくまでも不気味さを担保するために取られた一手段であって、それ自体が目的として求められるようなものではない。VOCALOIDの本質はその機能であり、けっして実体としてのプログラムなどではないのだ。われわれがbotに萌えるのはそれがテクノ感という欲望のコードを喚起しているからに過ぎないが、しかしそもそも欲望のコードと切り離された表象は存在しない。キャラクターのアイデンティティはその程度のことで失われるようなものではない――ツンデレという概念の発明によってそれ以前のキャラクターの一回性が失わたりはしないように。

 ブラックボックスなど必要ない(少なくともそれが新たなコードの創造に寄与しない限りは)。キャラクター実在論が目指すのはその先にあるものだ。即ち:

「われわれが一人一人のキャラクターに抱く愛着と欲望を、一体どのようにすれば彼/彼女自身の尊厳のために活用することができるのか?」

2009年11月8日. text.

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